2008年03月11日

【PREMIERE Star】イジェギュ

「茶母」と「ファッション70s」を作った。
今年7月の放送を目標に、「Beethoven Virus」を準備している。
:: イジェギュPD、「茶母」「ファッション70s」「Beethoven Virus」

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どうしてドラマの生命力が短いのか。
まず、評論家不在のせいだ。ドラマを正面から批評する評論家が絶対的に不足だ。そうして見ると、人々の頭の中からも即座に消え失せる。しかし、ドラマの大衆的な影響力は映画を飛び超える。ドラマで視聴率20%なら、映画を1000万人が見たのと同じだ。 破壊力が途方もない。

その破壊力の為に、ドラマの内容と表現で遥かに普遍妥当な地点もある。
その通りだ。ドラマでは遥かに大衆的でなければならないという強迫みたいなものがある。「茶母」だけでも、こんなふうな表現の数々を人々が受け入れるのかを、まず悩まなければならなかった。普遍的でなければ、ひとまず壁にぶつかり易い。そうしてみると、ドラマの内容と表現がのっぺりしてしまい易い。作る人自らが検閲をするようになるからだ。しかし、ドラマはシリーズという形式を通じて、そんな限界を突破することが可能だ。

シリーズ?
2・3ヶ月かけ、多くのエピソードを通じてストーリーを展開させながら、人物の性格をあべこべにしておいたり、視聴者の反応によって表現の水位を調節したり、ストーリーの緩急を調節することも可能だ。もう少し千変万化だ。実は私も、ドラマだけの魅力を感じるようになってから、いくらも経っていない。

作ってから馴染んだ場合か?
「茶母」を作りながらも、ドラマで何を、どう表現することが出来るか自信がなかった。よく「茶母」がドラマのジャンルで革新的だったと言われる。しかし、私がそれをやり遂げることが出来ると信じたことは一度もない。「茶母」は多くのPDと俳優たちを経て、私に与えられた企画だった。私はその時まで、長編ドラマを演出した事がない新入りPDだったし。その時、家内がこう言った。これは、火に飛び込む蛾と同じだ。上手くいってもいかなくても、問題が多いだろう。 でも、不思議なことに私は恐ろしくない。してみよう。そして、どうせ火に飛び込むなら、慣れたことよりは新しいことをしよう。

そしてMBCを出た。
「茶母」を終わらせ、ドラマに対する信頼が生まれた。私が願う、美学的にも商業的にも、ある価値を追い求めることが出来る媒体という気がした。実は今も、ドラマジャンルに対する考えは行き来している。しかし、ドラマがシリーズという点で遥かに躍動的であるということを肌で感じた後には、不安が遥かに減った。そして他の理由は、MBCを出る頃に、ある文を読んだ。人間は元々野性の動物だ。人は人間臭くなろうとすれば、野性を取り戻さなければならない。外部プロダクションのスカウトオファーを受け、実は断るつもりで行きながら、その文を読んで心を変えた。

それで野性を取り戻したか?
否。更に顔色を伺い、もっと草食動物になった。出てみるともっと辛い。ドラマ制作社は生存をしなければならない。生存を念頭に置かなければならないというのが、組職中で揉まれるよりもっと難しい。ドラマを作るのにもっと良い条件だと断定することは出来ない。

「理髪師」という作品を準備していたのではないか。
6ヶ月準備した後、諦めた。2ヶ月間、亜洲大学病院で宿食しながら医師たちの話を見聞きしたが、上手くよく解けなかった。「恐怖の外人球団」や「アルマゲドン」のように様々な弱点を持った医師たちが集まって病院の門を開く。しかし、この病院には患者がただ一人だけだ。その一人が完治するまで面倒を看る。ベールに包まれた資本家が、その病院を後援する。 個人的な事情の為だ。こういうストーリーだった。ちょっとファンタジーだ。

それで?
カンプル作家の「タイミング」をドラマで作ってみようと思った。しかし、その話一つだけでは上手く解けず、私が元々持っていた魚人間に関する話と合わせた。ところが、また話が上手く解けなかった。それで今回準備しているのが、クラシックのオーケストラに関する話だ。

「Beethoven Virus」?
音楽から捨てられたとか、自ら音楽を捨てた人々が集まってオーケストラをするようになる。16歳の子供から70歳のお爺さんまで集まるようになる。そこに冷笑的なコンダクターが一人登場する。悪いコンダクターが多くの人々と一体となりながら、一つのオーケストラになる。大まかに出たのはここまでだ。

キャスティングはどうなったか。
まだスタートしたばかりだ。シナリオは全16話中、4話程書いた。

「泰陵選手村」と「オーバー・ザ・レインボー」を書いたホンジナ、ホンジャラム姉妹作家がシナリオを書くと聞いた。
お二人は「黎明(夜明け)」を書いたホンソンウク先生の娘だ。「Beethoven Virus」の放映日程が、元々の10月から7月に動かされて、それが心配だ。その日程に合わせようとすれば、今からでもギリギリだ。

メロもあるか?
やっぱり強いメロは排除したい。しかし、視聴率を考えると、メロを完全に排除して行くことは出来ない。ドラマは感情過剰になるのが常だ。ドライには行き難い。毎瞬間、視聴者を意識しなければならないからだ。 韓国のTV視聴者たちは大変感情的だ。「無間道」と「The Departed」を見れば、完成度ではMartin Scorseseの「The Departed」が先立つが、人々は「無間道」をより好む。遥かに激情的だから。

結局、「ファッション 70s」でも「茶母」でも、視聴者たちの関心は最後の段階には誰が誰を選択するのかに傾いた。
「茶母」は計算してみると、メロではなかった。2人の男の価値観が衝突し、その中に1人の女が置かれている構図だった。遥かに社会性が濃かった。大変名残惜しかった。 私が見せたいことを見られなかった。しかし、時間が経ってから、人々がどれ程ドラマでメロを見つけ慣れているのかが感じられた。

ドラマは世俗的な映像ジャンルだ。愛、対決、家族、こういう素材が食が進む。
でも、私はメロが好きではない。上手くやる自信もない。

視聴者たちがドラマを消費する方式は変わっていないか。「茶母」嬖人のように嬖人が登場した。
この頃は、ドラマを見る時も、家で灯りを消し、映画を見るように見るという人々が多い。家で接するスクリーンもずっと大きくなった。以前、「X-files」でモルダーとスカリーが一緒に寝たのか寝なかったのかという論争をしたように、人々が韓国ドラマを見た後に想像をするようになったというのも新しい変化だ。「白い巨搭」でドラマジャンルに対する新しい可能性を見た。

相変らずドラマジャンルに対して悩みが多いようだ。
Marshall McLuhanがそうだった。TVはクールなメディアだ。人々はTVに沒入しない。 果物を食べながらも見る。しかし、もうTVもホットなメディアになったようだ。私が悩んだのは、ドラマが終われば一瞬で消費されて消えるというのは常に惜しい。それが、文でにも何にも残らないということも切ない。それでも、ドラマは確かに熱くなっている。

*詳しい内容は「Premiere」39号で確認して下さい。
http://premiere.elle.co.kr/

文: シンギジュ記者
写真: ウジョンフン・キムジェチョル

[ELLE]
http://www.elle.co.kr/people/PeopleView.html?AI_IDX=3129
posted by rika1999 at 08:11| ■TOPICS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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