2008年12月28日

【PREMIERE Star】イジェギュ Virus

イジェギュ監督こそ、オーケストラを指揮するマエストロだった。カンマエのように引き立つ音を引き締めながらも、人物一つ一つが出す音を偏らないように整えて調和を成さなければならなかった。イジェギュ監督はカンマエのように撮影場で毒舌を浴びせまくった。


ddgdgdg.jpgシンギジュ(以下、シン) :この間、妻と清平(チョンピョン)Petite Franceに遊びに行った。ぴったり駐車場だけ見物して帰って来た。人がとても多かった。
イジェギュ(以下、イ) :なぜ?
シン:その人波に混じると、私も天下の平凡な人になったようだった。ドラマを見て撮影場に遊びに行く人の話だ。ドラマが人々を狂わせる影響力は本当に驚くべきだ。
イ:視聴率が10%だけでも、統計的に500万人が見たという話だから。
パクウンソン(以下、パク) この間、タクシーで友達と「Beethoven Virus」の話をした事がある。タクシーの運転手が突然割り込んで来たと思ったら、ドラマがとても面白いとおっしゃった。年配の方だったけれど。
イ: 「Beethoven Virus」を初めて作る時は、すべての世代が楽しむことが出来るドラマを作ろうと言った。 結果的には30代と40代の女性の方々がたくさん見た。10代の視聴者たちと30代の男性の方々も一歩遅れて入って来た。しかし、40代と50代の男性の方々はやっぱり「風の国」を見ていた。しかし、後半部には40代と50代の男性の方たちも視聴した。
シン: どうして皆、そのように熱心に見たのだろうか?
イ: 誰が何と言っても良いシナリオだろう。その次は良い演技だ。キムミョンミンさんが本当にカンマエというキャラクターを120%生かし出した。
シン: それでは、監督様はどこへいらっしゃったのか?
イ: (笑) 熱心にはしたが、演出がする仕事というのが隠れていて、話し難い。
シン: ファンジョンミンさんみたいなお話だ。調った食膳に匙だけ置いた?
イ: (笑) 「茶母」と「ファッション70S」と比べると、「Beethoven Virus」は特に、他の方々の功がより一層大きくなったようだ。
シン: 「茶母」の時は映像美の話をたくさんした。「ファッション70S」は完全にブロックバスターだったし。「Beethoven Virus」は演出の立場では「茶母」と「ファッション70S」に比べれば、より少なめに挑戦的だったようだ。
イ: 「Beethoven Virus」は初めからキャラクター劇や状況劇だと思った。演出を新しくするというよりは、キャラクターの魅力をよく生かし出し、状況を面白く表現することが出来れば、人々が一番楽に見られると思った。
シン: シナリオは設計図だ。しかし、その設計図でどんな家を建てるかは結局、演出が決めることだ。
イ: 私と作家たちが初めて想像した「Beethoven Virus」と今の「Beethoven Virus」は違う。私たちが初めに考えたのが赤いリンゴだったら、今はちょっと違う質感と色を持ったリンゴになった。それは撮影して行く過程で変わったのだ。ドラマの特徴のようだ。撮りながら少しずつ状況に合わせて変わって行く。そこにドラマ演出の大きい役目があるようだ。その過程で演出が過ちを選択すれば、台無しにしてしまうようになるから。
シン: その過程でドラマ初盤は、実はちょっと心細かった。初回と二回目の回まで、人物が我を忘れて登場するが、辻褄が合わなくて難解だった。多分、あなたがそれを誰よりよく分かっていたはずだ。
イ: 元々は、そのように人物一人一人にすべてフォーカスを合わせながらドラマを引っ張って行こうと考えた。オーケストラのようにふんだんなドラマを作ろうとした。ところが、初回と二回目の回で、どうしても結果が良くなかった。多くの人々の話を同時多発に進行させながら、彼ら同士、関係や生の旅程を追うというのが、考えている程易しくない。

シン: 元々はオーケストラ交響曲を考えたが、結局、カンマエの導いて行くコンチェルトになったと言うことか?
イ: それでも、大きい差があったのではない。ただ、初盤の経験のせいで、最後まで押し通すことが出来なかった人物たちが何人かいる。チンガビョン先生とハイドンの話は、それさえも最後まで引っ張って行った方だったが、もう少し押し通せばと思った。これはオーケストラの指揮をするのと似ている。アンサンブルとハーモニーを生かさなければならないが、そこにホルンやトランペットでポイントを与えたい欲心もあるのだ。 しかし、一つ音に付いて行けば、ややもするとアンサンブルを台無しにする。人々が聞きたがるのはオーケストラから出る調和された音だから。ところが、またしてみるとカンマエという人物に付いて行きつつあることだ。完全に自己矛盾であることだ。
パク: 周辺では5回分位から集中して見始めたと言う。
イ: 実は5回で大きい公演があるじゃないですか。あまりに公演が早く出てしまったのではないかと言う話があった。実は5回で結局、紆余曲折の挙句に公演をした後は、また他の話だ。
シン: その時からが本当の話だったという話のように聞こえる。5部までの内容を見ながら、視聴者たちはもう人物たちに慣れた。だから、これから本格的にしたい話をすることが出来るようになったのだ。
イ: 「Beethoven Virus」はアウトサイダーたちが世の中で自分の席を見つけ出す話だ。5部まではアウトサイダーたちが何か騒ぎを起こすのだった。 その次はどんな事が起ころうか。アウトサイダーたちの間で内紛が起きたり、葛藤をもたらしたり衝突が起きないだろうか。自分の境遇を知り、何でも有難がった人々が変心をしないだろうか。その中でキャラクターが少しずつ変わって行かないだろうか。
シン: しかし、その人物一人一人をすべて表現するには時間があまりない。
イ: そうだった。本当に時間がとても迫って急だった。撮影時間にも追い回されて、放送時間も短かったし。
シン: 結局、その中で人物を見せようとすれば、ただ一場面と事件で端的に内面を現わすしかない。コントラバス奏者であるパクヒョクグォンのようにね。卵の洗礼に遭いながらも、職場に通わなければならないある瞬間を見せ、妻と子供を見せれば、その人物のキャラクターが定義されるのだ。
イ: そうだ。よりによって、どうしてその瞬間かということだ。その瞬間にその人物が盛られているから。作家の方々とそんな話をたくさんした。これは「LOST」に似ていることだ。漂流する船に多くの人々が乗っている。 極端的が状況になるから、人物たちの性格が現われる。我等はその人物が自分の内面を現わすある状況さえ作ってくれれば良いのだ。

シン: ところで、そんな状況を演出しようとしたが、いつのまにか他方ではカンマエという人物があまりに大きくなっていたということか。
イ: 皆、マエをとても愛するようになった。思ったより、あまりにも多く愛するようになったのだ。それでカンマエという人物を扱う時も、逆に自由ではなくなった。マエをむやみに変わるようにしたり、マエに誰かが挑戦するようにしたり、マエの挫折するのを人々が見たがらなくなったのだ。
シン: 人々は英雄が好きだから。
イ: マエという人物を思いついた時から、マエは愛されるだろうというのが分かっていた。マエは「Beethoven Virus」を成功させた要因だ。しかし、マエにもう少し揺れるようにしたかった。もう少し余裕があったら、人々はマエが揺れるのをもっと大きく感じて見たことだ。ただ、みんなそれを見たがらなかった。
シン: カンマエは「Beethoven Virus」には諸刃の剣だったということか。
イ: 完全に諸刃の剣だった。勿論、カンマエという人物が完全に予想外に作られたのではない。しかし、作る人の立場では、その差がもう少し大きく感じられる。
シン: 一体どうしてカンマエが魅力的なのか?性格は汚く、気難しく、自分のことの他に知らない。
イ: 自分の仕事に対する確信と信念がある人だから。あまりにも徹底的な人じゃないか。我々はそんな人に愛を感じざるを得ない。西洋ドラマの中の「Dr.House」に私たちが魅かれたのも、同じような理由からだろう。
シン: そうでなくても、カンマエを見ながら「Dr.House」が思い浮かんだ。ところが、「Dr.House」のグレゴリー・ハウスはカンマエに比べれば、終始一貫悪いヤツだ。勿論、彼の内面は孤独で暖かいようではある。しかし、演出者は絶対にそれを直接表現しない。反対にカンマには言葉だけ毒毒しくして、実際にする行動は善良だ。トゥルミの手は握らないが、追い出した人々に道を開いてくれる。
イ: 事実「Dr.House」を熱心に見る方ではない。しかし、カンマエにそのようにまで味気なく表現するのはちょっと難しかった。そして、そのようにまでドライにし過ぎないようにもした。「Dr.House」とは違い「Beethoven Virus」は暖かい人々の話だ。感情的な部分をあまり略する必要はなかった。 そのように行けば、多分視聴者たちが嫌がったはずだ。
シン: 本当?
イ: ドラマがいくらドライか、感傷的かというのは、収容者たちの態度にもかかっている。「Dr.House」だけでもかなりドライのようだが、「ER」に比べれば感性的だ。しかし、「Grey's Anatomy」に比べれば落ちる。三つのドラマの中でねどのドラマがより優秀なのかを計算することは難しい。視聴者がどんなものをより好むかの差であるだけだ。「Beethoven Virus」の視聴者たちが観たがったのは、あまりドライなものではなかったのだ。
シン: ドラマは私のような人もPetite Franceへ行くようにする程、通俗的で直接的な媒体だ。 演出をする時、ドラマを見る視聴者たちの感情を気配りするか。ドラマは、見る人をどんな場面で泣かせ、笑わせるようにも出来る。
イ: 演出する時は何より自分の感情に充実にいようと努力する。他のことは考えない。元々演出する時はすっかりハマる方でもあるから。しかし、作ってから、または作る前には私も少し下がって、見る人が何を感じ、感じざることが出来るかと考える。視聴者たちがこの場面でこのようになるだろうと考える。
シン: 実は悲しい音楽を流して、むやみやたらに感情をポンビングすることも出来るのではないか。ドラマ演出は、もしかしたら感情をポンピングしようとする誘惑との闘いのようでもある。
イ: そうだ。ところで、私がかなり多くポンピングしたと感じる場面で、どうしてそのようにしか刺激しなかったか、何故かと言う人もいる。
シン: 「Beethoven Virus」を演出する時、一番難しい点と言えば、やっぱりトーンを調節することだ。カンマエだけでも漫画のような人物だ。ひょっとすれば、ぱっと浮かんでしまうことにもなる。パクチョルミンさんが演じたペヨンギは本当に漫画の中の人物で。
イ: 初めドラマを企てた時から、そのことに長く悩んだ。そして決めてから始めた。 100%がリアルなことなら、120%位の線で行く。リアルな感じよりは、こっそり浮かぶように行く。

シン: それを誤れば、人々がリアリティーを感じる事が出来なくてそっぽを向いてしまう。
イ: 偽話なのに現実的に感じられるようにするのがカギだった。しかし、1回と2回を撮りながら迷ったせいで、そのトーンをまともに持って行くことが出来なかった。惜しいのがルミのキャラクターだ。 ルミという人物は本当に浮いているキャラクターだった。ところが、撮ってみるととても鈍く見えた。それでもうちょっと安定的なキャラクターに変えた。 初めのルミは天方地軸でお騒がせ者だ。すべては彼女の行動から始まる。それを捨てた。今思えば一番後悔している。そんな浮かんだトーンを維持しなければならなかった。トゥルミのキャラクターがそうであってこそ、ドラマが私が思ったトーンで維持され得た。
シン: トゥルミのキャラクターは、初めは明朗漫画で、後になって純情漫画になる。
イ: 実は初めはルミのキャラクターを説明する為に多くの事件を引っぱろうと思った。どうしてルミがオーケストラを作るしかなかったのか。 どうして音楽を諦めることが出来ないのか。フラッシュバックを使えば、人物を少しでもより多く説明することが出来た。実は他の人物たちにはそんな事件を気配りしたが、 ルミにだけ特にそんなヒマがなかった。
パク: トゥルミという人物は結局、カンマエやカンゴヌを通じて見るようになったようだ。トゥルミという完全なキャラクターで見るのではなく。
イ: 話し手になって見るから。本当に初めに考えたトゥルミのキャラクターを直ちにに押さえ付けてしまったことが一番惜しい。
シン: トゥルミが恋に落ちて、そのようになったのではないのか?
イ: (笑) トゥルミの元々のキャラクターを維持しながらも恋に落ちることが出来た。
シン: メロラインに対しては批判も多かった。分かてる?それにキムミョンミンという俳優が恋に落ちるというのは少しぎこちない。
イ: 実はメロラインを初めから作らないかもしれなかった。ところが、このドラマがしようとすることが人が生きることだから。「Beethoven Virus」はそれぞれの人物たちが、自分の道から脱し、新しい私を見つける話だ。カンマエには何よりそれが愛だった。

シン:「Beethoven Virus」がメロに陥る時は興味が多少落ちた。丘の上の大きい木の下で男女が会い、何それするというのは、あまりに面映ゆくないか。クリシェ(cliché…常套句)だ。そうするうちにカンマエがまたトゥルミが送った花を踏み付けながら、私の音楽が変わったと言う時、もうやっとまともに行くなと思った。
イ: クリシェだ。実は花を踏んでからがもっと悩みだった。人々はもうカンマエにハマっていた。もうカンマエが愛の為にダメになり、自分を失わなければならないのに、そうしてはいけない状況になったのだ。視聴者たちは元々、自分たちが見いものを見ようとする地点がある。私としてはその期待を満たしながらも、また覚めなければならないが、それを整理し難かった。そして甚だしくは、作家の方々と私の考えも違った。 作家の方々は花を踏んでからカンマエが結局、自分の席を見つけて成長したと考える。個人的に私は反対だ。カンマエはもう壊れたのだ。避けることが出来ない道に立ち入った。自分の音楽を忘れてしまったのだ。 私はカンマエをそのように理解しているが、視聴者たちはまた違うように考える。カンマエが音楽的により一層成熟したことでドラマが描いておいた部分もあるから。
シン: 結局、カンマエはミュンヘン・オーケストラに行くのではないか。ハッピーエンディングだろう。 その後に来るという長い幸せに。
イ: 実は私は花を踏む瞬間からもう崩れたと考えた。実は、時間がもっとあって悩みを加えることが出来たら、作家の方々ともっと長く論争をした。もしかしたら崩れるカンマエを見せることが出来たかもしれない。しかし、そうするにはカンマエはあまりにも多い愛を受けていた。
シン: 一体どうしてBeethoven 9番なのか?
イ: 実は私は音楽がよく分からない。クラシックはもっと分からない。作家の方々が選んだが、「歓喜の歌」がその時代にはすごく挑戦的な曲だったそうだ。 一時代から次の時代に移る曲だったし。何より「Beethoven Virus」の人物たちのように絶望から希望を見つける歌の為に選んだ。ルミが自殺をしようと思った時、水中で弦楽 4重奏を見るじゃないか。水中は息をすることが出来ない死んだ空間だが、同時にお母さんのお腹の中のように、一番こぢんまりして楽な空間だ。その中でルミは絶望と希望を全て見るのだ。Beethovenが耳が聞こえないまま書いたという9番交響曲は、言葉ではそんな感じがあると感じた。勿論、このドラマではBeethovenの曲を必ず使わなければならなかった。
シン、パク: (純粋に) 何故?
イ: タイトルが 「Beethoven Virus」じゃないですか。

シン: 音楽がもうちょっと出ると良かった。音楽が主人公と言うよりは、台詞と毒舌が主人公であるドラマになった。
イ: 音楽はかなり出ていると思う。ただ、今のように40秒や 50秒位ではなく1、2分以上ずつ出ればと思った。人々が音楽を感じようとすれば、最小限ある程度時間は超えなければならない。それが満たす事が出来なくて常に惜しかった。
シン: 「のだめカンタービレ」を見れば「ラフマニノフピアノ協奏曲 2番」が、主人公である千秋とのだめを繋ぐ音楽的なテーマの役目を果たす。「Beethoven Virus」 には、それほどの曲がない。音楽ドラマなのにという話だ。<プレミア>のある筆者は代わりに「Beethoven Virus」には台詞や毒舌が多いという批評を書いた。
イ:私は反対だ。私は「Beethoven Virus」でも音楽が大きい役目をしたと思う。例えば、''nella fantasia''だけ見ても、オーケストラ団員がカンマエに心を開くようにするきっかけになった音楽だ。 「のだめカンタービレ」では、千秋とのだめの関係が中心だったから、そのように音楽を繰り返し的に使うのが可能だった。一方、「Beethoven Virus」では多くの人が多くの関係を結ぶ。それで多くの音楽が多様に使われた。ただ、その音楽が視聴者たちに刻印されることが出来ない程、あまりに短く登場したことが惜しい。気持ちでは何分かずつ使いたかったが、1分から2分が精一杯だった。10回頃にベートーベン 9番 ''合唱''が使われたのも、実はその場面はスジェミンが登場して、いろいろ新派的なのに、それを音楽が相殺させてくれる。それは本当に音楽の力だとしか説明出来ない。
シン:「Beethoven Virus」の団員は音楽に狂った。どうして狂ったのか?あなたは、ドラマを撮る時には、ほとんど狂った人みたいだ。特集放送を見たら、撮影の追い込みにはヒゲまで伸ばしていた。あなたはどうしてそれ程に狂うのか?
イ:本当に度が過ぎていたいから。その人々も音楽が切実だから。音楽をしなければならない事情に対して一番軽く扱われたルミさえ、本当に切実だ。勿論、「Beethoven Virus」はそれをもう少し戯画化して、不十分に深刻に描いた。しかし切実なのは事実だ. 私にもドラマは切実だ。必ずしなければならない。
シン:しかし、ドラマがまともに評価を受けることが出来ないのが常に不満ではないか。ドラマ評がないと常にざんねんだった。あなたにはそんなに切実なドラマなのに。
イ:ドラマでは常に俳優と監督と作家が意図しない地点がある。本能的に動く瞬間がある。しかし、それも創造の過程で結果物だ。誰かが、そこにでもある意味を見つけ出してくれればいいが、そのようなことはない。
シン:ドラマの演出家は撮影現場で絶えず自分の欲心を捨てなければならない人だ。このように、と思って来ても、現実に合わせて何を諦めるか早く判断しなければならない。また何を探して食べるのかを決めなければならない。あなたは欲心が多い監督だ。常に辛くあるしかない。
イ:先輩たちから聞いた話しだ。諦め方を学ばなければならない。しかし、人というのは、ずる賢い動物だ。放棄に慣れれば、どんなことは諦めてしないという計算が早くなる。コンピューターと人間が違うのは、等しい計算をさせれば、コンピューターは同じ時間がかかるが、人間は早くなるということだ。私はそうしないようにする。適応してしまえば、早く計算して判断して諦める。この状況で私が固執すれば、どのように避けて来るのかが明らかだが、それを固執するのがいい。 それなのに私は、常にまったく同じ時間を投資しようと思う。諦めるにも同じように時間を使おうと思う。しきりに慣れればマンネリズムに陥るから。
シン:諦めず、妥協しないというのがカンマエだ。
イ:カンマエも同じだ。自分の考える原則がある。しかし、「Beethoven Virus」だけ見ても、本当に絶え間なく横から上から、そして下から攻撃が入って来る。そして諦めるようになる。しかし、諦めてもかなり抵抗する。
シン:撮影場でカンマエのように振舞う時があるか?
イ:本当に毒舌を浴びせる時がある。いつだったか。撮影場でスタッフたちが、私の後で重要な話をしていた。ところが、私は演出に集中する為に神経が鋭くなっていた。私がまさに罵り、出て騷げと言った。多分、酷く傷を負っただろう。
シン:カンマエの特徴をよく毒舌だと言うが、 彼は自分が願うことの為には極端的にエゴイスチックになることが出来る人だ。自分が願うことの為に、自分だけを眺めることが出来るか。それがカンマエが投げる質問なのだろう。
イ:自分が行かなければならない道、自分が願うことの為に自分のみを眺める人がカンマエだ。ドラマに登場したカンマエの過去の中で、愛した女を去って送る場面がある。 作家たちは実は、その場面が不必要だと反対した。女と別れて雨に降られながら倒れ、子犬トベンに会う場面だった。すべては出ていないが、そこで女がカンマエにこう言う。 "あなたが私を愛していると思った。" カンマエが言う。 "そうは言った事はない。" その瞬間は、言葉でカンマエを端的に見せる場面だ。カンマエは自分を保護しなければならない。鉄瓮城を積んで、その中に入り、自分だけを眺めると音楽が生まれる。

シン:カンマエに対するフラッシュ・バックがいくつか出て来る。幼い時にビニールハウスで暮らした時代も出て来て。
イ:アメリカドラマ「DEXTER」を見れば、彼が殺人魔になるしかなかった理由が断想のように登場する。 かなり効果的にフラッシュ・バックを使った場合だ。
シン:実はフラッシュ・バックをあまりよく使うと、ドラマが田舍臭くなる。危険だ。
イ:そのとおりだ。とても危ない。しかし、カンマエの事情はたくさん気になるから。もしもの話だ。「Beethoven Virus」のシーズン2があるならば、それはこれからのカンマエに対する話も可能だが、それ以前のカングマを描いたら面白いようだ。今のカンマエが出るまでの話だ。
シン・パク:シーズン2は作るか?
イ: (笑) 「Beethoven Virus」以後にカンマエがどうなり、カンゴヌがどうなってというより、それ以前のカンマエが知りたくはないか?
シン:その時、中学生のカンゴヌがカンマエの前に現われて音楽は四角だ。こう訊ねて?
イ:私はカンマエとカンゴヌの関係はフロイドとユングの関係だと思う。ユングは師匠フロイドの理論を尊重し、信じることから始めたが、結局違う道に行くしかなかったのではないか。ただユングが何十年の間に感じたみとをゴヌが早く感じたのだろう。人々はゴヌがカンマエに立ち向かって行くのを生意気だという。しかしカンマエはには天才というのがあり得るのか、天才ではない者が、努力でどの位それに追い付くことが出来るのか、こういうことを悩めばねカンゴヌは楽しい音楽を悩む。二人の葛藤はもう少し深くよく見る隅がある。
シン:もう少し深く扱ってみたい主題はあったが、「Beethoven Virus」はそのようにまで深く入って行くことが出来なかったという惜しさがあるようだ。事実、とても深く行けば、パクウンソン記者はつまらながったことだ。(笑)
パク:何故、そうなの。 (笑)

進行: シンギジュ、パクウンソン記者
写真: パクジンジュ

[elle.co.kr]
posted by rika1999 at 22:32| ■TOPICS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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